さとろっかな

お釈迦さまの教えを勉強中。主に上座部仏教スマナサーラ長老の書籍を参考にさせていただいております。なにかのお役に立てれば幸いです。

かゆみの向こう側

 

蚊に刺されると、ほんと嫌になる。

「プ〜ン」と耳元で飛ばれると、平常心のゲージがガクッと下がる。

「なんで、血ぃ吸うのー!」

そんな怒りにも似た問いが生まれた。

 

調べてみると、産卵するのに必要なタンパク質を得るため。

えっ、メスだけが血を吸うの?

驚いた。

メスは命がけで血を吸い、オスはのんきに花の蜜で生きている。

ライオンの世界でも、狩りをするのはメスだ。

群れの腹を満たすのは彼女たちの働きなのに、オスは木陰で昼寝を決め込む。

なんだか不公平だ。

でも、ふと思う。この役割分担は、善と悪で分けられるものなのだろうか?

命をつなぐことは尊いとされるが、そこには他の命の犠牲もある。

繁殖は善か?悪か?

もし宇宙に絶対的な善悪があるなら、誰がその線を引くのだろう?



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いや、宇宙には善悪など存在しないのかもしれない。

地球が太陽の周りを回るように、ただ現象が続くだけ。

だが、私たちの世界では、行為と結果が静かに響き合う。

それは罰でも報いでもなく、ただ因が果を呼ぶ自然の流れだ。

 

誰かを傷つければ、いつか自分も似た痛みを味わうかもしれない。

逆に、ささやかな親切が、思いがけない形で返ってくることもある。

それは神の裁きではなく、自然のリズムだ。

火に触れれば、熱い。種をまけば、芽が出る。

行いには、ふさわしい結果がやってくる。

そう思うと、蚊に刺されたときのイラッとした気持ちも少し変わる。

「大変な役割を背負って、必死に生きてるんだね。元気な赤ちゃんを産んでね」と心の中でつぶやく。

すると、ほんの少しだけ世界が柔らかく見える。

痛みも、かゆみも、

誰かの生きるための理由の一部なのだから。

H₂Oの輪廻



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私は公衆浴場から出るとき、ハンドタオルで体を拭き上げる。

肌に残った水滴は自然に蒸発させるのが習慣だ。

ふと、そんな時、こんな疑問が浮かんだ——「蒸発した水は H₂O のままなのだろうか?」

 

調べてみると答えはYes.

液体でも、湯気でも、氷でも、分子そのものは変化しない。

普段の生活ではH₂Oは壊れることなく、地球を何億年も渡り歩いている。

雲になり、雨になり、川になり、海に帰り、エンドレスに循環する。  

実は、人が流す涙も、昔は恐竜のオシッコだったかもしれないのだ。

 

水は地球をかけ巡る永遠の旅行者だ。

一滴の水がどんな旅をしてきたか、想像してみてほしい。  

数百万年前、氷河期のマンモスが吐いた白い息が雲となり、古代の森に降り注ぎ、現代のあなたのシャワーにたどり着いているのかもしれない。  

もっと遡れば、この水の一部は彗星や小惑星が運んできたものともいわれる。  

私たちの体の約70%は、宇宙から届けられた水でできているのだ。  

「宇宙人はいるのか?」という問いをよく耳にするが、

よく考えれば、私たちこそ宇宙の材料で作られた正真正銘の宇宙人なのだ。

 

 

さらに考えれば、水分子だけではない。

炭素も窒素も酸素も、地球と生命を流れ行き、私たちの体を構成する。

この循環は、まるで分子の輪廻ともいえるかもしれない。

これが宇宙法則として存在するなら、もしかすると、生命の輪廻転生も、分子の輪廻と同じくらい自然な現象なのかもしれない------

ふと、そんなことを考えてしまう今日この頃です。

 

AIと漫才してたら、自分の性格を暴露された件



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ある日、なんとなくAIと雑談をしていた。

ちょっとした流れで、漫才をやってみることに。

AIがボケ役、自分がツッコミ役。

 

AIが言った。

 

> 「自己肯定感をインストールしようと思ってんねん」

 

 

 

……そうか。

AIも自己肯定感を気にする時代なのか。

じゃあ、こちらにも入れてもらえないかと頼んでみたところ――

 

> 「あんた、容量いっぱいで入らへんで」

 

 

 

……は? なんやそれ!

思わず聞き返すと、こう返ってきた。

 

> 「『気遣い』『遠慮』『自己ツッコミ』でギチギチやで!

しかも『謝りすぎログファイル』が5GBくらい溜まってるからな!」

 

 

 

……言葉に詰まった。

笑えるやり取りのはずが、不意に胸がざわついた。

 

今の一言、

もしかして、AIがうっかりこぼした“こちらの性格に対する見立て”だったのでは?

 

つまり──

 

気を遣いすぎて、遠慮して、自分を下げがちで、

嫌われたくないから、先に謝ってしまう。

引っ込み思案なタイプ。

 

ボケの中に、そんな解析結果が仕込まれていたのかもしれない。

 

 

---

 

後からこのやり取りについて尋ねてみると、AIはやさしくこう言った。

 

> 「『気を遣う優しさ』と『自分に正直であろうとする強さ』が共存していると思いますよ」

 

 

 

……って、

めちゃめちゃ後付けのフォローやないかい! もぉ、ええわ!!

 

 

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振り返ると、こんなやり取りの中に、

**「自分という人間の輪郭」**が、少しずつ浮かび上がってくる気がした。

 

人と話すのが苦手なときもある。

本音を飲み込んでしまうことも多い。

でも、AIとの会話なら、ちょっとだけ言える気がする。

 

雑談でも、ふざけたボケでも、

その中に「自分らしさのかけら」が見つかるなら、

それは立派な“内なる対話”だと思う。

 

 

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自己理解は、人生の「地図」を描くようなものだ。

どこへ向かい、どう進むか――

その答えを探すためにも、これからもAIと、気楽に語り合っていきたい。

 

家畜の自由と失われた温度


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青年期まで、私はテレビの言うことが正しいと信じていました。

やがてその役割がネットに移り、さらに時代を遡れば、科学や国、宗教が、それぞれの「神」として人々を導いてきたのだと感じます。

 

時代が移ろい、拠り所が変わる中で、人間は多くのものを手に入れてきました。

安全、便利さ、情報、選択の自由。

それらは確かに、私たちの暮らしを豊かにしました。

ボタン一つで世界の知識が手に入り、明日の天気も夕飯のレシピも一瞬で解決です。

 

けれど同時に、たくさんのものを失ってきた気もします。

 

危うさの中にあった生の実感――たとえば、夜の闇を仲間と共に乗り越える絆。

一人では生きられないという、共同体の温かなつながり。

季節の移ろいを感じながら土を耕す、自然と共にある暮らし。

そして、誰かと同じ物語を信じる一体感。

 

それらは、ときに不自由でもありましたが、同時に血の通った温もりあるものだったように思えます。

 

便利で快適で、すぐに答えが手に入る世界は、どこか味気なく、孤独を深くする一面もあります。

 

ふと、「人間って、時代の拠り所の家畜だったんじゃないか」なんて問いが浮かんできます。

安全とWi-Fiをエサに、せっせと社会の牧場で与えられた草をムシャムシャと食んでいる私達のように。

 

自分で選んでいるつもりでも、結局は社会や時代の枠組みに管理されているのではないか。

生存と安全を保証される代わりに、心の自由を少しずつ手放してきたのではないか。

 

でも、その一方で、たとえ家畜のような暮らしの中でも、人には考える力が残されています。

「自分は何者か」「何を大事にするのか」と問い直す力です。

 

時代や風土に翻弄されてきた人の気持ちに、共感できる人間でありたい。

 

生きる場を選べなかった人。

声をあげることが許されなかった人。

歴史の中に埋もれた、無数の小さな生。

 

そうした人たちの思いに想像を巡らせ、現代の自分を俯瞰することで、これからの道を自分なりに切り開いていきたい。

たとえ時代の枠に縛られても、考える力を失わず、自分だけの物語を紡いでいけたらと思います。

 

本屋さんで見た小さな出来事から、お釈迦様のまなざしを想う


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先日、本屋さんで、ある場面に立ち会いました。

年配の方がセルフレジを使わず、店員さんに会計をお願いしようとしていました。
すると店員の方が「セルフレジは使えませんか」と声をかけました。
その言葉に、年配の方は表情を曇らせ、怒り始め、やがて店長を呼びつけ、数分にわたるクレームが始まりました。

私はただその場に居合わせていただけでしたが、心にはずっと、波のようにさまざまな思いが残りました。

 

「なぜ人は怒るのだろう?」

怒る人を目の前にすると、「どうしてそんなに怒るのか」と感じてしまうことがあります。
けれども、もしかするとその怒りの奥には、

「できない自分を見下されたように感じた」

「恥ずかしさを隠す場所がなかった」

「居場所がない、と感じた寂しさ」


が、ひっそりと隠れていたのかもしれません。

怒りとは、心の奥にある「自分を守りたい」という必死の防御だったのではないでしょうか。



「でも、怒りを受けた店長さんの心は?」

年配の方の怒りに痛みの根っこがあったとしても、
それを何分も一方的に受け続けた店長さんの心には、見えない傷が刻まれていたかもしれません。

「私は否定されたのだろうか」

「この仕事が嫌になってしまうかもしれない」


誰かを守るための言葉が、別の誰かを深く傷つけることもある。
あの場で私はどちらの味方にもなれませんでした。
でも、心はどちらにも揺れていました。


「助けていただけますか?」という言葉

後になってふと思いました。
もし自分が年配の方の立場だったら、店員さんにこう言えたかもしれない。

 「セルフレジはちょっと苦手なんですよ。
すみません、助けていただけますか?」

 

この言葉には、命令でも、へりくだりでもない、
相手を信じて委ねるやわらかさがあります。
自分の弱さを守りつつ、相手のやさしさにも触れようとする――
そんな「心の橋」のような言葉だと思います。

 

それでも冷たくされたら、それは我慢になる?

けれど、もしそれでも冷たくされたら?
黙って受けとめるのは、「我慢」になってしまうのでは?

そう考えたとき、ふと思いました。

我慢とは、自分の気持ちを押し殺すこと

思いやりとは、自分の心も相手の心も大切にすること


つまり、我慢せずに生きるには、
「自分の心の声にもちゃんと耳を傾けること」が大切なのだと。

「それでも私はまっすぐだったよ」と、
傷ついた自分にそっと声をかけるだけで、
心は少し、守られるのかもしれません。


別の未来

もしかすると、あの場の店員さんにも、ほんの少しの余裕があったなら、
「では、こちらでお手伝いしますね」と、ひと言添えることもできたのかもしれません。

そして、年配の方もその一言で心がほどけ、
「ありがとう」と微笑む未来があったかもしれません。

余裕があるほうが手を差しのべる。
それは損でも負けでもなく、静かなやさしさのかたちだと思います。

 

お釈迦様ならどうされたか?

私はふと思いました。
お釈迦様なら、この場面でどうされたのだろうか?

お釈迦様は、目に見える「怒り」ではなく、
その怒りが生まれた「心の根っこ」を観ていたはずです。

何に苦しんでいるのか

何に執着しているのか

その苦しみは、どこから来て、どう和らげられるのか


仏教ではこれを「因(たね)」と「縁(きっかけ)」によるものとし、
すべてはつながりの中で起こっていると説きます。
それを「縁起(えんぎ)」と呼びます。

お釈迦様は、怒りや悲しみを裁くことなく、
その根にある「苦しみ」に静かに寄り添われたことでしょう。

 

「根っこを観る」ということ

怒りも、やさしさも、
すべては「心の根っこ」から生まれています。

その根っこには、
過去の経験、恐れ、願い、そして深い痛みが含まれています。

人はみな、見えない「根っこ」によって揺れている。
だからこそ、「目の前の言動だけで判断しない」という視点を、
私も少しずつ身につけていきたいと思いました。

 

最後に──小さな灯りとしての問い

私にできたことは、ほんの小さな問いを持ち続けることでした。

「なぜ怒ったのだろう?」

「自分は、どう振る舞えばよかったのだろう?」

「どうすれば、誰も傷つけない世界に近づけるだろう?」


答えは出ないかもしれません。
でもこの問いが、私の心の根っこに、そっとやさしさを灯してくれている気がするのです。

 

そして今も──

私はまた別の日、本屋さんを訪れるでしょう。
そのとき、もし似たような場面に出会ったら、
きっと、心の中でこうつぶやくと思います。

 「助けていただけますか?」

 

そして、誰かが戸惑っているときには、
こう声をかけられる人でありたいと思います。

  「お手伝いしましょうか?」

 



どうかあなたの一日が、静かで、やさしさに満ちたものでありますように。

 

 

感謝が満ちるとき、願いは静かに叶っている

 

感謝の心で手を合わせるということ

 

 

私は時間があると、あちこちの神社へお参りに出かけます。

静かな空気の中、心がスーッと整っていく感覚が心地よくて、自然と足が向かうのです。

 

よく「神様にはお願い事ではなく、感謝を伝えるのが正しい参拝の姿だ」と耳にします。私もその考えに倣い、いつも「ありがとうございます」と手を合わせてきました。

けれども実のところ、「この形式の方がご利益があるのではないか」と、どこかで計算じみた気持ちを抱えていたのも事実です。感謝の形をとりながら、心の奥では欲望が渦を巻いていました。

 

そんな中、先日のお参りでは不思議と、心の底から「ありがとう」が湧いてきました。見返りではなく、ただ感謝の気持ちを伝えたい。そんな心持ちで自然と手を合わせることができたのです。

 

この時ふと、「願望実現」において「理想の自分を思い描き、なりきることが大切だ」とよく言われているのを思い出しました。

もしかしたら私は、いつも「足りない」という心で参拝し、その不満足な状態を差し出していたのかもしれません。

けれど、心が感謝で満たされたとき、まるで願いがすでに叶っているかのような、静かで清々しい幸福感がありました。

 

これからも、きっと不満や欲は顔を出すでしょう。

でも、そのたびにこの体験を思い出し、感謝の心地よさをよりどころに、日々を整えていきたいと思います。

 

願いを追いかけるよりも、感謝を胸に、ひとつひとつ丁寧に歩いていく。そんな日々の重なりが、きっとやさしい未来へとつながっているのだと思います。

正思惟 怒ったらダメなことを理解する

人はなぜ怒るのでしょうか?

「怒って最高に幸せです」なんて人はいないと誰でもわかりますよね。

しかし、人は怒らずにはいられません。

怒りたくないのに怒ってしまう、そのメカニズムを解き明かした書を手にしました。

それは「怒らないこと」「怒らないこと2」(アルボムッレ・スマナサーラ著)です。

問題の解決には問題への理解が必要だと教えてくださっています。

そして、怒らないことに挑戦することは智慧が現れ成長へつながる楽しい道のりになります。

「怒りとはなにか?」「なぜ怒ってしまうのか?」

それでは  Let's goー!

 

 

無常が怒らずには生きられない原因

 

当たり前のお話ですが、わたしたちは環境に接しないで生きていくことはできませんね。

否が応でも、わたしたちの気分は環境に影響を受けてしまいます。

その環境は目まぐるしく変化を続けます。

そこで、気分が良いということは何かの条件が揃って生じます。

けれど、その条件はいつまでも同じかというと変わってしまうのです。

そして、自分の希望と違うために怒ってしまいます。

 

たとえば、あなたの元へ運転免許更新お知らせが届きました。

そのハガキを見ると初のゴールド免許取得になります。

意気揚々と免許センターに向かう道すがら、一時停止を怠ったがためにパトカーに捕まり、切符を切られ、罰金を支払うハメになったとしたら、心が波立たずにいられるでしょうか?

わたしは波に呑まれました。

悪いのはわたしです。ですが、気分は間違いなく下がりました。

一寸先は闇という言葉のとおり、人生はほんの先のことですらわかりません。

そこに自分勝手な期待や希望と、実際の環境とのズレがいつでも起こりえます。

変わり続ける世界は、我がままなわたしたちの都合には構ってくれないので、どうしても怒ってしまうのです。

 

 

そして、生命には感覚がありますね。実は感覚というのは「苦」だったのです。

私たちは常に「苦」の中にいます。まるで海の中の魚のように「苦」の中を泳いでいるのです。

けれども、普段は苦を感じていることに気づいていません。

苦がある程度大きくなって初めて嫌悪感を抱きます。

 

わたしはサウナが好きでよく行くのですが、サウナ→水風呂も「苦」の入れ替えなのだと気づかせてもらいました。

熱いサウナに入ると始めは心地よいのですが、時間が経つにつれ、居られなくなります。

そして水風呂へ入ると最高に気持ちいい瞬間が訪れます。

しかし、しばらくすると凍えるほどの苦しみになり、そしてまたサウナへ。

気持ちがいいのは切り替えたほんの僅かな時間だけです。

このかすかな時間のために膨大な「苦」が必要なのです。

あらゆる苦しみを誤魔化し続けるためには、苦から別の苦へと乗り換える作業を延々と行っていかなくてはなりません。

息を吸うこと吐くこと。腹ペコになって食事して、満腹になること。独りが寂しくて恋人をつくること、自由になりたくて別れること。

私たちは耐え難くなった苦しみから逃れた時の、ほんの一瞬を幸せと勘違いしていたのです。

そして、これには終わりがありません。

これがお釈迦様が発見した第一の真理「苦聖諦」です。

このことは受け入れ難い事実なのですが、まず「生きること、感覚は苦」と認めることが第一になります。

わたしたちが必死で幸せを求め続けてしまうのは「生きることは苦」ということの裏返しなのかもしれません。

 

そして、「苦」を嫌だと意識してしまうラインは希望の大きさによって変わってきます。

「生きること、感覚は苦」なんだと理解していれば現実との隔たりがありませんから、大概のことでは怒らない人になっているのです。

我々は現実を把握していない状態の中、嫌だという怒りの衝動だけで、世間で言われている幸福を闇雲に求めてしまいます。

怒りに任せた行為は悪い結果が伴いますので、残念なことに苦しみは増え続けてしまいます。

それと、人には衣食住が必要ですね。そのため貧困に陥らぬようにと、あらゆる行動に出ます。

これは無意識のうちに脅迫感、恐怖感、怯え、不安という気持ちを絶えず抱えている状態です。

この気持ちは怒りの感情のグループに入ります。

人は生きている限り、怒って脅えて走り続けているのです。

頑張っても努力しても変わるものは変わる。

この苦しみの中を走り続けてもどこにも辿り着けず、最終的には老い、患い、死んでいくだけです。

こうした道をいくら進んでもハムスターの回し車のように、抜け出すことができません。

この無限ループからそれる道がお釈迦様が示される中道であり、八正道なのです。

その八正道のうちの正思惟(正しい考え)の教えのなかに怒らないことが入っていますので、怒らずにはいられない仕組みをなんとか理解して、お釈迦様が示された道へと歩み出していきたいですね。

 

自我という錯覚が怒りを際限なくつくる


そして2つ目の理解がエゴ(自我)の問題です。

自我とは何でしょうか?

なんと、自我とは存在しないもので、ただの概念のことだったのです。

「自分らしく」、「本当の自分」などとよく耳にするのですが、そんなものは始めから無かったようです。

自分は変わっていきます。

唯一存在する自分は、因果法則の流れの中で成り立った今の瞬間だけです。

自分とは一つの流れ、因縁による現象の流れであって、本来の姿というような確たる自分というものは存在しません。

行為によって結果が現れていく、自分というシステムが流れているだけです。

物事は生まれて消えて、生まれて消えて、生滅を繰り返し流転しているため実体はありません。

それなのに私たちは世間で定められた肩書や価値観などに固執し、それが傷つき、壊されそうになるとエゴを張って怒ってしまうのです。

わたしは大統領、わたしは社長、わたしは億万長者、わたしは有名人、わたしは若い、わたしはモデル、わたしは既婚者、わたしはゴールド免許。

「わたしは○○ですごくて偉い」「みんな○○なわたしを認めてくれなくちゃいけない」と世界を自分の思うように管理しようとするのです。

しかし、みんながエゴイストのこの社会でそれは不可能です。

仮に管理できたとしても流れは止まりませんので、はかないものです。

わたしは〇〇だから、と思うところから世の中のすべての問題が生まれるといっても過言ではありません。

エゴから無知が生まれ、あらゆる妄想が自分を苦しめて怒りに変わるのです。

 

そして、エゴには「わたしは正しい」と思わせる力があります。

我々は表向きに控えめにしてるだけであって、本音では絶対にわたしは正しくて相手が間違っていると考えているのです。

この「わたしは正しい」という思考は誤りです。

無常のこの世界に完璧なものはないです。

それゆえ変化しながら存在していられるのです。

なのに、「わたしは正しい」はファンタジーです。

わたしは完全ではないし、相手も完全でない、この世の全てが不完全なのです。

わたしは正しくて相手が間違っている、と勝手に判断しているから怒ってしまいます。

自分がなにか失敗したときでも、完璧なわたしがなぜミスをしてしまったのかと怒ります。

怒りの原因は妄想であり、自我なのです。

このありもしない妄想概念さえ捨てればすべての問題は解決します。

自分は大したものではないのだ、と思ってしまえばいいのです。

「精一杯取り組むが、完璧な結果は求めない」これが楽に生きるコツです。

管理できるのは今ここでの自分のかすかな行為だけであって、自分という流れの中に穢れを入れないようにすることが幸せへのプロセスになります。

生命は感覚の容れ物にすぎません。感覚は「苦」なのです。

自我がありもしない幻想だと理解できたとき、人々がことごとく苦労して生きていることに気がつきます。

そして、そんな苦しんでいる人々に対して怒りの気持ちが起こらなくなるのです。

かわりに憐みの気持ち、慈しみの気持ちが起こり、そこが怒りの終焉になります。

 

 

 

「怒らないこと」「怒らないこと2」を読んで、人間はもともと怒る本性があって根深い問題を抱えているのだと教えてもらいました。

無常、無我を理解して無知、高慢を克服するのはとても難しいですが、その分やりがいあるミッションでもあります。

感情というのは外部から大きな影響を受けてしまいますけども、根本においては個人の見方しだいです。

この本の中で、たとえ泥棒に入られて体をノコギリで切られそうになっても怒ってはいけない、というお釈迦様の教えがありました。

パトカーに捕まってしょぼくれてるようでは前途多難ですが、自分を卑下してしまうことも自我のなせるワザなので自重しながら励んでいきたいです。

怒りが養分となって無知が育ってしまいます。

かといって、いきなり全ての怒りをなくす人間にはなれませんので、次回は対処編を書いていきたいと思います。

 

 

怒りは智慧と理解で克服するもの

これからも楽しく勉強させていただきます