正思惟 怒ったらダメなことを理解する
人はなぜ怒るのでしょうか?
「怒って最高に幸せです」なんて人はいないと誰でもわかりますよね。
しかし、人は怒らずにはいられません。
怒りたくないのに怒ってしまう、そのメカニズムを解き明かした書を手にしました。
それは「怒らないこと」「怒らないこと2」(アルボムッレ・スマナサーラ著)です。
問題の解決には問題への理解が必要だと教えてくださっています。
そして、怒らないことに挑戦することは智慧が現れ成長へつながる楽しい道のりになります。
「怒りとはなにか?」「なぜ怒ってしまうのか?」
それでは Let's goー!
無常が怒らずには生きられない原因
当たり前のお話ですが、わたしたちは環境に接しないで生きていくことはできませんね。
否が応でも、わたしたちの気分は環境に影響を受けてしまいます。
その環境は目まぐるしく変化を続けます。
そこで、気分が良いということは何かの条件が揃って生じます。
けれど、その条件はいつまでも同じかというと変わってしまうのです。
そして、自分の希望と違うために怒ってしまいます。
たとえば、あなたの元へ運転免許更新お知らせが届きました。
そのハガキを見ると初のゴールド免許取得になります。
意気揚々と免許センターに向かう道すがら、一時停止を怠ったがためにパトカーに捕まり、切符を切られ、罰金を支払うハメになったとしたら、心が波立たずにいられるでしょうか?
わたしは波に呑まれました。
悪いのはわたしです。ですが、気分は間違いなく下がりました。
一寸先は闇という言葉のとおり、人生はほんの先のことですらわかりません。
そこに自分勝手な期待や希望と、実際の環境とのズレがいつでも起こりえます。
変わり続ける世界は、我がままなわたしたちの都合には構ってくれないので、どうしても怒ってしまうのです。
そして、生命には感覚がありますね。実は感覚というのは「苦」だったのです。
私たちは常に「苦」の中にいます。まるで海の中の魚のように「苦」の中を泳いでいるのです。
けれども、普段は苦を感じていることに気づいていません。
苦がある程度大きくなって初めて嫌悪感を抱きます。
わたしはサウナが好きでよく行くのですが、サウナ→水風呂も「苦」の入れ替えなのだと気づかせてもらいました。
熱いサウナに入ると始めは心地よいのですが、時間が経つにつれ、居られなくなります。
そして水風呂へ入ると最高に気持ちいい瞬間が訪れます。
しかし、しばらくすると凍えるほどの苦しみになり、そしてまたサウナへ。
気持ちがいいのは切り替えたほんの僅かな時間だけです。
このかすかな時間のために膨大な「苦」が必要なのです。
あらゆる苦しみを誤魔化し続けるためには、苦から別の苦へと乗り換える作業を延々と行っていかなくてはなりません。
息を吸うこと吐くこと。腹ペコになって食事して、満腹になること。独りが寂しくて恋人をつくること、自由になりたくて別れること。
私たちは耐え難くなった苦しみから逃れた時の、ほんの一瞬を幸せと勘違いしていたのです。
そして、これには終わりがありません。
これがお釈迦様が発見した第一の真理「苦聖諦」です。
このことは受け入れ難い事実なのですが、まず「生きること、感覚は苦」と認めることが第一になります。
わたしたちが必死で幸せを求め続けてしまうのは「生きることは苦」ということの裏返しなのかもしれません。
そして、「苦」を嫌だと意識してしまうラインは希望の大きさによって変わってきます。
「生きること、感覚は苦」なんだと理解していれば現実との隔たりがありませんから、大概のことでは怒らない人になっているのです。
我々は現実を把握していない状態の中、嫌だという怒りの衝動だけで、世間で言われている幸福を闇雲に求めてしまいます。
怒りに任せた行為は悪い結果が伴いますので、残念なことに苦しみは増え続けてしまいます。
それと、人には衣食住が必要ですね。そのため貧困に陥らぬようにと、あらゆる行動に出ます。
これは無意識のうちに脅迫感、恐怖感、怯え、不安という気持ちを絶えず抱えている状態です。
この気持ちは怒りの感情のグループに入ります。
人は生きている限り、怒って脅えて走り続けているのです。
頑張っても努力しても変わるものは変わる。
この苦しみの中を走り続けてもどこにも辿り着けず、最終的には老い、患い、死んでいくだけです。
こうした道をいくら進んでもハムスターの回し車のように、抜け出すことができません。
この無限ループからそれる道がお釈迦様が示される中道であり、八正道なのです。
その八正道のうちの正思惟(正しい考え)の教えのなかに怒らないことが入っていますので、怒らずにはいられない仕組みをなんとか理解して、お釈迦様が示された道へと歩み出していきたいですね。
自我という錯覚が怒りを際限なくつくる
そして2つ目の理解がエゴ(自我)の問題です。
自我とは何でしょうか?
なんと、自我とは存在しないもので、ただの概念のことだったのです。
「自分らしく」、「本当の自分」などとよく耳にするのですが、そんなものは始めから無かったようです。
自分は変わっていきます。
唯一存在する自分は、因果法則の流れの中で成り立った今の瞬間だけです。
自分とは一つの流れ、因縁による現象の流れであって、本来の姿というような確たる自分というものは存在しません。
行為によって結果が現れていく、自分というシステムが流れているだけです。
物事は生まれて消えて、生まれて消えて、生滅を繰り返し流転しているため実体はありません。
それなのに私たちは世間で定められた肩書や価値観などに固執し、それが傷つき、壊されそうになるとエゴを張って怒ってしまうのです。
わたしは大統領、わたしは社長、わたしは億万長者、わたしは有名人、わたしは若い、わたしはモデル、わたしは既婚者、わたしはゴールド免許。
「わたしは○○ですごくて偉い」「みんな○○なわたしを認めてくれなくちゃいけない」と世界を自分の思うように管理しようとするのです。
しかし、みんながエゴイストのこの社会でそれは不可能です。
仮に管理できたとしても流れは止まりませんので、はかないものです。
わたしは〇〇だから、と思うところから世の中のすべての問題が生まれるといっても過言ではありません。
エゴから無知が生まれ、あらゆる妄想が自分を苦しめて怒りに変わるのです。
そして、エゴには「わたしは正しい」と思わせる力があります。
我々は表向きに控えめにしてるだけであって、本音では絶対にわたしは正しくて相手が間違っていると考えているのです。
この「わたしは正しい」という思考は誤りです。
無常のこの世界に完璧なものはないです。
それゆえ変化しながら存在していられるのです。
なのに、「わたしは正しい」はファンタジーです。
わたしは完全ではないし、相手も完全でない、この世の全てが不完全なのです。
わたしは正しくて相手が間違っている、と勝手に判断しているから怒ってしまいます。
自分がなにか失敗したときでも、完璧なわたしがなぜミスをしてしまったのかと怒ります。
怒りの原因は妄想であり、自我なのです。
このありもしない妄想概念さえ捨てればすべての問題は解決します。
自分は大したものではないのだ、と思ってしまえばいいのです。
「精一杯取り組むが、完璧な結果は求めない」これが楽に生きるコツです。
管理できるのは今ここでの自分のかすかな行為だけであって、自分という流れの中に穢れを入れないようにすることが幸せへのプロセスになります。
生命は感覚の容れ物にすぎません。感覚は「苦」なのです。
自我がありもしない幻想だと理解できたとき、人々がことごとく苦労して生きていることに気がつきます。
そして、そんな苦しんでいる人々に対して怒りの気持ちが起こらなくなるのです。
かわりに憐みの気持ち、慈しみの気持ちが起こり、そこが怒りの終焉になります。
「怒らないこと」「怒らないこと2」を読んで、人間はもともと怒る本性があって根深い問題を抱えているのだと教えてもらいました。
無常、無我を理解して無知、高慢を克服するのはとても難しいですが、その分やりがいあるミッションでもあります。
感情というのは外部から大きな影響を受けてしまいますけども、根本においては個人の見方しだいです。
この本の中で、たとえ泥棒に入られて体をノコギリで切られそうになっても怒ってはいけない、というお釈迦様の教えがありました。
パトカーに捕まってしょぼくれてるようでは前途多難ですが、自分を卑下してしまうことも自我のなせるワザなので自重しながら励んでいきたいです。
怒りが養分となって無知が育ってしまいます。
かといって、いきなり全ての怒りをなくす人間にはなれませんので、次回は対処編を書いていきたいと思います。
怒りは智慧と理解で克服するもの
これからも楽しく勉強させていただきます
正見を正見してみました
お釈迦さまが説かれた八正道(幸せになる八つの道)の一番目は正見です。
正見に始まり正見に終わる、とは言われていないかもしれませんが、基礎基本、土台となる正見とはなんでしょうか?
オッケー!正見ね、正しく見ればいいんでしょ。
ちょっと待ってください。
正しいって何?見るって?
それでは正見を正見してみましょう。
正見とは「自分とは何なのか」と観察する
正見の反対語は偏見となっていました。
主観、色眼鏡、フィルター、バイアス、ヒューリスティック等々、色んな言葉があるように人は自分の経験、思考パターンに当て嵌めてものごとを判断しがちです。
これを仏教用語では邪見といい、やってはいけないとされる十悪(殺生、倫盗、邪淫、妄語、悪口、両舌、綺語、貪欲、瞋恚、邪見)の中で最も重い悪行為となるようです。
殺生よりも重いとは意外でしたが(邪見でした)、私達は生きている瞬間瞬間に業が蓄積されていきますので、時間単位でみると、そうなってしまうようです。
正見の重要度がヒシヒシと感じられますが、正見とは「智慧によって正しい見解を得る」と私の私淑する先生、スマナサーラ長老は仰っています。
智慧の目で見るとは、妄想を割り込ませないことです。
例えば、スマホから着信音が鳴った途端、誰からだろう?なんの用件??と頭の中がぐるぐると掻き乱されます。
こういう場合は、ただ音が聴こえた、ただいくつか考えが浮かんだな、と自分を観察するだけでいいのです。
正見への入口の第一歩は「自分とは何なのか」と正直に見ることです。
そして観察を続けてみると、自分の心の中には渇愛という衝動が、24時間365日常駐していることがわかります。
思考の正体
渇愛には3つの要素があります。
①五感に刺激を与えたいという欲。
②生きていたいという存在欲。
③自分の気に入らない存在を排除したいという欲。(自殺するのもこの衝動からくるものです)
渇愛から生まれる一つ一つの思考はすべてが苦(不満)であって虚しいものです。
すべての思考を実現させても、完成の日は来ません。
この原則を理解して、観察を続けて無明と渇愛を消していきましょう、というのが八正道のスタート、正見なのです。
これは四聖諦を正しく見ることにも繋がっていきます。
また、「正見(正しい見解)」とありますが、その本当の意味は「見解がない」ということです。
とかく、私達は固定観念を持ってものごとを判断してしまいます。その場のデータを捏造し、どうしても客観性を欠きます。
そこで、前提のないまっさらな状況を見て、どうするかを決めます。
それも、とりあえずの決定でオッケーです。人間は不完璧ですし、その後のデータで柔軟に対応し、修整していけばいいのです。
正見というのは、ゴチャゴチャした曖昧な思考で苦しまず、頭がすごく整理されていることです。
「見解はすべてゴミ」とお釈迦さまは教えてくださっています。
そして、一切の現象は奇跡も偶然もなく、因果法則によって一時的に成り立っていると理解できるのです。
渇愛は原始脳から沸き起こる根元的な欲です。
自分自身を観察してみたところ、どっぷりと邪見と渇愛に浸かっていました。
しかし、長老はこう励ましてくださいます。「所詮、完成できないんだから、頑張っても意味ないや」と開き直って生きるのと、心を育てることに努めて生きるのとでは、人生の色合いがまったく違ってくると。
八正道は循環する
そして、八正道には、ある仕掛けが施されています。
八正道のシンボルになっている法輪には、八つの道すべてが連動して、つながっているという意図が含まれています。
どういうことかといいますと、まず正見を完成させて、次の正思惟に移って、また次という風に一個一個進んでいくのではなく、どこから始めても他の七つの道も自動的についてきて進んでいくのです。
例をあげますと、悪口を言わないようにしようと(正語)、チャレンジ(正精進)します。悪口を言わないために考えを巡らせ(正思惟)、集中(正定)します。そして今までになかった気づき(正念)が生まれる、という具合いに、まるでFCバルセロナの流れるような連携プレーを彷彿させるオートメーションシステムなのです。
正見のやることは、いたって単純で、感情を入れず研究者のように自分を観察するだけです。
クセ(業)で妄想に耽ったときは、気づいてまた戻ってくればいいのです。
今ここで、新しい業を作っていくだけなのですね。
心の働きを知り尽くした、お釈迦さまの道を踏み出せば自分とは何なのか、わかる日も来るでしょう。
四聖諦って、知っちょっタイ??
人生に悩みはつきものと、よくいわれますよね。出口のない迷路のようなものなのでしょうか。
アメリカの巨大迷路では夕方になっても出られなくて、警察に助けを求めてしまうケースもあったようです。日本の迷路にはギブアップゾーンなるものも、あるみたいですね(そのギブアップゾーンに辿り着くのも大変そうですが…)。
さて、人生方向音痴の私は、お釈迦さまにガイドしてもらいたいと、尽力しております。かといって、出家はしてません。
今回はお釈迦さまが悟ったあとに最初にされた説法、四聖諦について書いていきます。この四聖諦を完全に理解できれば、迷路から脱出できるみたいです。最初の説法で伝家の宝刀を抜かれます。いきなり元気玉を打つようなものでしょうか。
では、四聖諦とはなんなのか。概要をまとめていきたいと思います。
四聖諦の諦は、諦めるという漢字。諦めるの語源は明らかにする。これ以上深く掘り下げることのない事実で、仏教用語では真理、道理という意味になります。
四つの聖なる真理は、苦諦・集諦・滅諦・道諦で構成されています。
苦諦
まずは苦諦について述べていきます。苦とは、苦しみというワードから連想するに重々しく感じられますが、ニュアンスとしては満足しないとか、思い通りにならない、という解釈が理解しやすいです。すべては苦しい、というような話ではないみたいです。
それを踏まえまして生命には苦(不満)がある、と説きます。
そもそも人間には基本プログラムが搭載されていて、それが貪(むさぼり)・瞋(怒り)・痴(無知)です。一言でいうと滅茶苦茶ワガママです。建前で謙虚に振る舞っていますが、誰も彼も自分の都合の良いように周りの人達が動いてくれることを望んでいます。まるで全知全能、世界の王様気取りです。
ところが実際、世の中みんなジャイアン状態。自分も完璧ではないので、思い通りに事は運ばず、不満が尽きることはありません。
集諦
仮に頑張って欲しかったものを手に入れても、そのよろこびは一時的で、せっかく手に入れたものも、自分自身さえも、刻々と変わっていきます。一切は、瞬時に変化して止まりません。次の欲が湧き上がり、不満を解消しようと、また行動する。苦(不満)のサイクルが続きます。
過剰な欲が苦の原因だと解明していくことが集諦です。
滅諦
常識的には高級品、恋人、お金、信頼、人気などを得るために奮闘するのは、別に悪いことではありませんよね。けれど、得る喜びには執着がつきまといます。しかも瞬間でさえ安定した状態は作れません。無常のものを求めるから、ますます苦しみが増える。
そこで真逆の無くす喜びへと方向転換します。大事なのは心の平安です。さらに無くす喜びには楽から楽へと、より一層生長する特性があります。例えば、嫌な人と会わずに済む喜びは、ずっと続きますよね。
そして最終的に苦の原因(執着、渇愛、無明)がなくなり、智慧が現れた状態、悟りの境地を涅槃といいます。これが滅諦です。
道諦
そして涅槃へと行き着く道標が、八正道といわれる教えで道諦です。
なにも希望もなく廃人のように怠惰に暮らす、ということではないのですね。八正道の中身は正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です。タスクは膨大で、いくらでもやることがあります。
より良い人間になろう、心を成長させよう、と埋め込まれたプログラムを書き換え続け、更新していく。刹那的な解決法ではなく、本当に幸福になるための明るい道なのです。
四聖諦は、苦がある、苦の原因がある、苦を滅した状態がある、そこへ向かう道があると理解し、そして実践して、成し遂げるまでをいいます。
これまでスマナサーラ長老の著述を参考に書かせてもらいました。浅学ゆえに多々至らぬ点があろうかと思われますが、御容赦くださいませ。
ちなみに私自身、欲望をなくすことができるのか自信がありません(泣)。
お金も欲しいし、女性にもモテたいです。
もちろん感謝はとても大切なことですが、これで充分満足だ、もう何も望みません、と思えることは言うほど簡単ではない印象です。
ただ、それが苦しみの原因なんだと、実感として、なんとなくですが分かります。
それに、悟れば輪廻から脱するという、異次元の世界観がリアルに感じられないのも正直なところです(これが無明なのか?)。
しかし、お釈迦さまは具体的な道を提示してくださっています。
こうして綴っているだけでも理解が深まって、もっと詳しく知りたい気持ちになりました(この欲はいいんだよね?)。あとは行動に落とし込んで、一歩一歩、歩んでいくだけです。
四聖諦を灯火に、迷路のゴールを目指します!
てくてくてく
あっ、ギブアップゾーンだ……
生きる目的は「苦しみをなくす」
生きるのは楽しいですか?苦しいでしょうか?生きるとは何なのでしょうか?
アルボムッレ・スマナサーラ著「結局は自分のことを何もしらない」を読みました。
スマナサーラ長老はスリランカ仏教を日本に伝道されている方です。
スリランカ仏教は小乗仏教または南伝仏教と呼ばれ、お釈迦様の教えを忠実に伝えていこうという教義です。
生きるとは「動き」と「知る」こと
その本の中で、生きるとは「動き」と「知る」の2つだけ。
動きは身体的、知るは精神的な動きと定義しています。
なぜ動くのかというと、動いていないと耐え難い苦痛が現れる。
たとえば、呼吸の動きをとめると、ものすごく苦しい。吸う苦しみから、吐く苦しみへ移動し、また吸う苦しみへ、苦から苦へ飛び回っていく。私たちは生きている間、このように苦しみをごまかすのが人生、とおっしゃいます。人生は苦だ、と。
このまま死ぬまで苦しみ続けるしかないのか?
そこで長老は、もう一つの知ることに問題があると教えてくれます。
人は目の前の現象をありのままに捉えず、自分のフィルターを通して認識している。
それが苦しみの原因で、これを無明といいます。
正しく知ることで苦しみを少なくしていくことはできる。
生きる目的を苦しみを無くしていくことにしてはどうでしょうか、と推奨されています。
正しく知るには、お釈迦様が悟りに達したという、瞑想を行います。
自分の動作、感覚、感情を頭の中で実況し、思考を止めることが目的で、これをヴィッパサナー瞑想といいます。
思考という無明をその都度打ち消していく、すると智慧が現れるようです。
すべてのものごとは生まれては消え、生まれては消えと、瞬間、瞬間、変わって消えていく。この世に常なるものは無い。自分ですら無常で、本来執着できないものに執着している、と気づけるそうです。
誰かに何か言われたことが心から離れなくて苦しい。あの人の態度が気に入らない。こんなことを思っている時間は不毛です。わかってはいるのですが、中々やめられないものです。
今、生きてみてください
スマナサーラ長老がTED×Talksで語られているのをYouTubeで見ましたが、人は自分の妄想概念で心を働かないようにしている。今の瞬間を無駄にするな、と。
世の中の問題は過去と将来に引っかかることでしか起きないのだとおっしゃいます。
心のエネルギーを今に集中させることが、抜群に能力を発揮する秘訣で、今、明るく、元気に生きていれば、それでいい。
以前TVで見たシーンで覚えているのが、視聴者投稿ビデオだったのですが、帰省先から戻る車中で、子供が泣きじゃくって別れを惜しんでいたのに、車が走り出した数秒後にケロッと切り替えて、楽しそうに遊んでいました。執着ゼロです。
子供はいつも動き回ってますね。今の瞬間に夢中です。だから苦しみが少なくて楽しそうに見えます。無邪気な姿に学ぶことが多いのかもしれません。
年齢を重ねる上でつくったフィルターに囚われているのでしょう。自分の気持ちを認めて手放す。よく耳にするメタ認知、マインドフルネスなども同様の趣旨なのでしょう。
このヴィパッサナー瞑想は心の筋トレともいいます。
ムキムキの心にしたいものです。
南無〜(←これは大乗仏教)
本を聴く。オーディオブックの効用
このブログでは、私が最近ハマっているオーディオブックについて紹介します。
オーディオブックは耳で聴く読書です。本の中身をナレーターなどが朗読してくれるので、読まないで聴きます。なので読書と呼んでいいのかわかりませんが、とても便利なコンテンツです。
私は建築系の職人で主に現場でひとりなのですが、元々はラジオを聞きながら仕事をしていました。その後ブルートゥースイヤホンを購入してから、YouTubeを聴いていたところ、幸運にもオーディオブックのことを知りました。
オーディオブックをおすすめする理由
1 読書時間が増える
オーディオブックを知る前は、帰宅後に読書の時間をあてていました。しかし、肉体労働→風呂→食事→読書のターンは入眠作用が尋常ではありません。良くても1日30分ほどでした。しかし今では、ほぼ仕事中が読書時間なので1日10時間ほどになりました。再生速度も調整可能なので倍速で聴けば、読書量はさらに増えます。これは現代の二宮金次郎といえるのではないでしょうか⁉
2 難解な本にも手を伸ばせる
私は難しそうな本を開くと文字に圧倒されてしまって、興味があっても棚に戻していました。戦に向かったところ、百万の軍勢を前に退却するような感じです。ところが、オーディオブックの場合だと聴くだけなので、斥侯するような感覚で、さらっと聴き終えてしまいます。知識が広がりやすくなりました。ありがたいです。
3 本来の読む読書もはかどる
さすがにオーディオブックも全ての本を網羅しているわけではありません。そこで本来の読む読書。聴いた本で知った分野を深掘りしたいときなどに読んでいます。普段、論理的な文章を聴き慣れているせいか、内容が入りやすくなりました。また、読む読書ならではの利点にも気づかされました(読み返すことが容易にできるetc...)。逆に読んだことのある本を聴くことで、新たな発見が増え興味が尽きません。読む、聴くの相乗効果が働いています。
オーディオブックを楽しみましょう
オーディオブックは作業のお供に打ってつけです。家事や運転中などでも耳は留守してます。片手間に知識や好奇心を満たして、人生を豊かにしていきたいですね。オーディオブックを楽しんでください。
私は以下の2つを愛用しています。