正見を正見してみました
お釈迦さまが説かれた八正道(幸せになる八つの道)の一番目は正見です。
正見に始まり正見に終わる、とは言われていないかもしれませんが、基礎基本、土台となる正見とはなんでしょうか?
オッケー!正見ね、正しく見ればいいんでしょ。
ちょっと待ってください。
正しいって何?見るって?
それでは正見を正見してみましょう。
正見とは「自分とは何なのか」と観察する
正見の反対語は偏見となっていました。
主観、色眼鏡、フィルター、バイアス、ヒューリスティック等々、色んな言葉があるように人は自分の経験、思考パターンに当て嵌めてものごとを判断しがちです。
これを仏教用語では邪見といい、やってはいけないとされる十悪(殺生、倫盗、邪淫、妄語、悪口、両舌、綺語、貪欲、瞋恚、邪見)の中で最も重い悪行為となるようです。
殺生よりも重いとは意外でしたが(邪見でした)、私達は生きている瞬間瞬間に業が蓄積されていきますので、時間単位でみると、そうなってしまうようです。
正見の重要度がヒシヒシと感じられますが、正見とは「智慧によって正しい見解を得る」と私の私淑する先生、スマナサーラ長老は仰っています。
智慧の目で見るとは、妄想を割り込ませないことです。
例えば、スマホから着信音が鳴った途端、誰からだろう?なんの用件??と頭の中がぐるぐると掻き乱されます。
こういう場合は、ただ音が聴こえた、ただいくつか考えが浮かんだな、と自分を観察するだけでいいのです。
正見への入口の第一歩は「自分とは何なのか」と正直に見ることです。
そして観察を続けてみると、自分の心の中には渇愛という衝動が、24時間365日常駐していることがわかります。
思考の正体
渇愛には3つの要素があります。
①五感に刺激を与えたいという欲。
②生きていたいという存在欲。
③自分の気に入らない存在を排除したいという欲。(自殺するのもこの衝動からくるものです)
渇愛から生まれる一つ一つの思考はすべてが苦(不満)であって虚しいものです。
すべての思考を実現させても、完成の日は来ません。
この原則を理解して、観察を続けて無明と渇愛を消していきましょう、というのが八正道のスタート、正見なのです。
これは四聖諦を正しく見ることにも繋がっていきます。
また、「正見(正しい見解)」とありますが、その本当の意味は「見解がない」ということです。
とかく、私達は固定観念を持ってものごとを判断してしまいます。その場のデータを捏造し、どうしても客観性を欠きます。
そこで、前提のないまっさらな状況を見て、どうするかを決めます。
それも、とりあえずの決定でオッケーです。人間は不完璧ですし、その後のデータで柔軟に対応し、修整していけばいいのです。
正見というのは、ゴチャゴチャした曖昧な思考で苦しまず、頭がすごく整理されていることです。
「見解はすべてゴミ」とお釈迦さまは教えてくださっています。
そして、一切の現象は奇跡も偶然もなく、因果法則によって一時的に成り立っていると理解できるのです。
渇愛は原始脳から沸き起こる根元的な欲です。
自分自身を観察してみたところ、どっぷりと邪見と渇愛に浸かっていました。
しかし、長老はこう励ましてくださいます。「所詮、完成できないんだから、頑張っても意味ないや」と開き直って生きるのと、心を育てることに努めて生きるのとでは、人生の色合いがまったく違ってくると。
八正道は循環する
そして、八正道には、ある仕掛けが施されています。
八正道のシンボルになっている法輪には、八つの道すべてが連動して、つながっているという意図が含まれています。
どういうことかといいますと、まず正見を完成させて、次の正思惟に移って、また次という風に一個一個進んでいくのではなく、どこから始めても他の七つの道も自動的についてきて進んでいくのです。
例をあげますと、悪口を言わないようにしようと(正語)、チャレンジ(正精進)します。悪口を言わないために考えを巡らせ(正思惟)、集中(正定)します。そして今までになかった気づき(正念)が生まれる、という具合いに、まるでFCバルセロナの流れるような連携プレーを彷彿させるオートメーションシステムなのです。
正見のやることは、いたって単純で、感情を入れず研究者のように自分を観察するだけです。
クセ(業)で妄想に耽ったときは、気づいてまた戻ってくればいいのです。
今ここで、新しい業を作っていくだけなのですね。
心の働きを知り尽くした、お釈迦さまの道を踏み出せば自分とは何なのか、わかる日も来るでしょう。