四聖諦って、知っちょっタイ??
人生に悩みはつきものと、よくいわれますよね。出口のない迷路のようなものなのでしょうか。
アメリカの巨大迷路では夕方になっても出られなくて、警察に助けを求めてしまうケースもあったようです。日本の迷路にはギブアップゾーンなるものも、あるみたいですね(そのギブアップゾーンに辿り着くのも大変そうですが…)。
さて、人生方向音痴の私は、お釈迦さまにガイドしてもらいたいと、尽力しております。かといって、出家はしてません。
今回はお釈迦さまが悟ったあとに最初にされた説法、四聖諦について書いていきます。この四聖諦を完全に理解できれば、迷路から脱出できるみたいです。最初の説法で伝家の宝刀を抜かれます。いきなり元気玉を打つようなものでしょうか。
では、四聖諦とはなんなのか。概要をまとめていきたいと思います。
四聖諦の諦は、諦めるという漢字。諦めるの語源は明らかにする。これ以上深く掘り下げることのない事実で、仏教用語では真理、道理という意味になります。
四つの聖なる真理は、苦諦・集諦・滅諦・道諦で構成されています。
苦諦
まずは苦諦について述べていきます。苦とは、苦しみというワードから連想するに重々しく感じられますが、ニュアンスとしては満足しないとか、思い通りにならない、という解釈が理解しやすいです。すべては苦しい、というような話ではないみたいです。
それを踏まえまして生命には苦(不満)がある、と説きます。
そもそも人間には基本プログラムが搭載されていて、それが貪(むさぼり)・瞋(怒り)・痴(無知)です。一言でいうと滅茶苦茶ワガママです。建前で謙虚に振る舞っていますが、誰も彼も自分の都合の良いように周りの人達が動いてくれることを望んでいます。まるで全知全能、世界の王様気取りです。
ところが実際、世の中みんなジャイアン状態。自分も完璧ではないので、思い通りに事は運ばず、不満が尽きることはありません。
集諦
仮に頑張って欲しかったものを手に入れても、そのよろこびは一時的で、せっかく手に入れたものも、自分自身さえも、刻々と変わっていきます。一切は、瞬時に変化して止まりません。次の欲が湧き上がり、不満を解消しようと、また行動する。苦(不満)のサイクルが続きます。
過剰な欲が苦の原因だと解明していくことが集諦です。
滅諦
常識的には高級品、恋人、お金、信頼、人気などを得るために奮闘するのは、別に悪いことではありませんよね。けれど、得る喜びには執着がつきまといます。しかも瞬間でさえ安定した状態は作れません。無常のものを求めるから、ますます苦しみが増える。
そこで真逆の無くす喜びへと方向転換します。大事なのは心の平安です。さらに無くす喜びには楽から楽へと、より一層生長する特性があります。例えば、嫌な人と会わずに済む喜びは、ずっと続きますよね。
そして最終的に苦の原因(執着、渇愛、無明)がなくなり、智慧が現れた状態、悟りの境地を涅槃といいます。これが滅諦です。
道諦
そして涅槃へと行き着く道標が、八正道といわれる教えで道諦です。
なにも希望もなく廃人のように怠惰に暮らす、ということではないのですね。八正道の中身は正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です。タスクは膨大で、いくらでもやることがあります。
より良い人間になろう、心を成長させよう、と埋め込まれたプログラムを書き換え続け、更新していく。刹那的な解決法ではなく、本当に幸福になるための明るい道なのです。
四聖諦は、苦がある、苦の原因がある、苦を滅した状態がある、そこへ向かう道があると理解し、そして実践して、成し遂げるまでをいいます。
これまでスマナサーラ長老の著述を参考に書かせてもらいました。浅学ゆえに多々至らぬ点があろうかと思われますが、御容赦くださいませ。
ちなみに私自身、欲望をなくすことができるのか自信がありません(泣)。
お金も欲しいし、女性にもモテたいです。
もちろん感謝はとても大切なことですが、これで充分満足だ、もう何も望みません、と思えることは言うほど簡単ではない印象です。
ただ、それが苦しみの原因なんだと、実感として、なんとなくですが分かります。
それに、悟れば輪廻から脱するという、異次元の世界観がリアルに感じられないのも正直なところです(これが無明なのか?)。
しかし、お釈迦さまは具体的な道を提示してくださっています。
こうして綴っているだけでも理解が深まって、もっと詳しく知りたい気持ちになりました(この欲はいいんだよね?)。あとは行動に落とし込んで、一歩一歩、歩んでいくだけです。
四聖諦を灯火に、迷路のゴールを目指します!
てくてくてく
あっ、ギブアップゾーンだ……