さとろっかな

お釈迦さまの教えを勉強中。主に上座部仏教スマナサーラ長老の書籍を参考にさせていただいております。なにかのお役に立てれば幸いです。

生きる目的は「苦しみをなくす」


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生きるのは楽しいですか?苦しいでしょうか?生きるとは何なのでしょうか?

アルボムッレ・スマナサーラ著「結局は自分のことを何もしらない」を読みました。

スマナサーラ長老はスリランカ仏教を日本に伝道されている方です。

スリランカ仏教は小乗仏教または南伝仏教と呼ばれ、お釈迦様の教えを忠実に伝えていこうという教義です。

 

生きるとは「動き」と「知る」こと

その本の中で、生きるとは「動き」と「知る」の2つだけ。

動きは身体的、知るは精神的な動きと定義しています。

なぜ動くのかというと、動いていないと耐え難い苦痛が現れる。

たとえば、呼吸の動きをとめると、ものすごく苦しい。吸う苦しみから、吐く苦しみへ移動し、また吸う苦しみへ、苦から苦へ飛び回っていく。私たちは生きている間、このように苦しみをごまかすのが人生、とおっしゃいます。人生は苦だ、と。

 

このまま死ぬまで苦しみ続けるしかないのか?

そこで長老は、もう一つの知ることに問題があると教えてくれます。

人は目の前の現象をありのままに捉えず、自分のフィルターを通して認識している。

それが苦しみの原因で、これを無明といいます。

正しく知ることで苦しみを少なくしていくことはできる。

生きる目的を苦しみを無くしていくことにしてはどうでしょうか、と推奨されています。

正しく知るには、お釈迦様が悟りに達したという、瞑想を行います。

自分の動作、感覚、感情を頭の中で実況し、思考を止めることが目的で、これをヴィッパサナー瞑想といいます。

思考という無明をその都度打ち消していく、すると智慧が現れるようです。

すべてのものごとは生まれては消え、生まれては消えと、瞬間、瞬間、変わって消えていく。この世に常なるものは無い。自分ですら無常で、本来執着できないものに執着している、と気づけるそうです。

誰かに何か言われたことが心から離れなくて苦しい。あの人の態度が気に入らない。こんなことを思っている時間は不毛です。わかってはいるのですが、中々やめられないものです。

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執着が苦しみの原因

 

今、生きてみてください

スマナサーラ長老がTED×Talksで語られているのをYouTubeで見ましたが、人は自分の妄想概念で心を働かないようにしている。今の瞬間を無駄にするな、と。

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世の中の問題は過去と将来に引っかかることでしか起きないのだとおっしゃいます。

心のエネルギーを今に集中させることが、抜群に能力を発揮する秘訣で、今、明るく、元気に生きていれば、それでいい。

 

以前TVで見たシーンで覚えているのが、視聴者投稿ビデオだったのですが、帰省先から戻る車中で、子供が泣きじゃくって別れを惜しんでいたのに、車が走り出した数秒後にケロッと切り替えて、楽しそうに遊んでいました。執着ゼロです。

子供はいつも動き回ってますね。今の瞬間に夢中です。だから苦しみが少なくて楽しそうに見えます。無邪気な姿に学ぶことが多いのかもしれません。

年齢を重ねる上でつくったフィルターに囚われているのでしょう。自分の気持ちを認めて手放す。よく耳にするメタ認知、マインドフルネスなども同様の趣旨なのでしょう。

このヴィパッサナー瞑想は心の筋トレともいいます。

ムキムキの心にしたいものです。

南無〜(←これは大乗仏教